swatanabe’s diary

webライター、ラノベ書き(アマ)。だいたい創作とゲームとラノベの話です。

形容詞や副詞は、作品のメッセージと面白さを削ぐ恐れがあると思う

形容詞や副詞は便利な一方、読者から作品の面白さを奪うリスクがあると考えています。筆者の創作スタイルが特殊だからこの結論に至った可能性が過分にあり、一般的に見て少数派に属する意見な気もしますが。

 

たとえば、次の3つの表現を見てみましょう。

  1. 車がすごい速さで走り抜けていく
  2. 車が時速100kmで走り抜けていく
  3. 車が目にも留まらぬ速さで走り抜けていく

1は「すごい」という形容詞で、2は「時速100km」という数字で、3は「目にも留まらぬ」という比喩で、速さを表現しています。さて、皆さんはどの車がいちばん速いと感じるでしょうか。ちなみに、筆者が最も速いと感じるのは、3です。

 

1。

「すごい速さ」と書いたとき、皆さんが想像する「速さ」はバラバラでしょう。F1並みの速さを想像する方もいれば、高速道路を走る車を想像する方もいれば、デロリアンを想像する方もいると思います。

ここで大事なのは、受け手の想像がバラバラという点です。

たとえば、筆者が「時速100km程度の車」を想定して「すごく速い」と書いたとしましょう。ですが、受け手は「F1並みに速い車」を想定するかもしれません。このとき、この車があとあと登場したときの描写によっては「あれ? あの車って、そんなに遅かったの?」という食い違いを起こってしまうかもしれません。

 

2。

時速100kmと具体的に書けば、1のような食い違いは起こりません。100kmは誰にとっても100kmですね。

ただ問題は、時速100kmが具体的にどのくらいの速さなのかを受け手が知らないと、速さが伝わりません。たとえば、筆者は車を運転した経験がないため(そもそも免許を持っていません)、車の時速100kmがどの程度の速さなのかピンときません。

このように、具体的に書きすぎると共通認識がなくて伝わらない恐れがあります。

 

3。

比喩表現は便利なもので、1ほど抽象的ではないので食い違いを避けられ、かつ2のような共通認識も必要としません。これは、比喩が受け手の想像によって具体的な画を持つためですね。

ただ、適切な比喩を思いつくには一定の表現力や感性が必要なため、使いこなすのが大変という壁があります。また使いすぎると鬱陶しいリスクもあるため、バランスを考えなければいけません。

 

     *

 

作品の面白さという点でいくと、受け手が望む絵面とマッチする3が、最も楽しんでもらえる可能性が高まると思います。次点が1ですね。

2は極力、避けるべきだと思いますが、これは個人的な嗜好が大きく影響しているのでなんともいえません。

筆者はラジオや小説など「画がないメディア」が好きで、その理由は「想像する楽しみがあるから」です。つまり、小説のメディアとしての魅力を「想像する楽しみ」に置いています。

 

ところで、なぜ3のほうが1よりも作品を楽しんでもらいやすいのでしょうか。受け手が望む絵面とは、具体的になにを意味するのでしょうか。

この点については、以前に下の記事で書いたので、そちらを参照していただければと思います。料理研究家の方の箇所です。

 

swatanabe.hatenablog.com

 

つまり、1は「これおいしいよ」と書き手から言っているだけなのに対し、3は「これおいしそう」と受け手が主体的に思っている、この違いです。

グルメレポーターなどが単に「おいしい」と言わず、巧みな表現で料理の見た目や味を表現するのは、受け手の想像(おいしそうな料理の絵面)を喚起して「おいしそう」という気持ちを高めるためですね。テレビだと画があるので実感しにくいですが、ラジオの通販コーナーで上手い人の宣伝を聞いてると、やっぱり「うまそー!」と感じます。ホントに。

そして、これは小説の面白さにも言えることだと思います。

 

余談ですが、こうした感性を磨ける意味で、ラジオは創作する人に有益なメディアだと思います。

 

     *

 

また形容詞や副詞を裸で使うと、書き手が作品に込めたメッセージが伝わらなかったり、曲解されたりする恐れもあると思っています。これは形容詞や副詞の抽象性ゆえですね。

 

ちょっと話が変わりますが、画がないメディアでは、たまに「読者の想像に任せる」という格言めいたフレーズが聞かれます。いろいろ解釈のしようがあるフレーズですが、筆者は「画がないからこそ、その画を読者が自由に想像してよい、そこにこそ楽しみがある」という意味で捉えています。

ただ、これはあくまで「面白さ」、言い換えれば「感想」に対してのみ適用すべきだと思っています。要は、著者として伝えたいメッセージは受け手の想像に委ねないで書き切らないといけない。委ねていいのはその解釈=感想だけだと。

 

ここでいうメッセージとは、書き手が想定する面白さや魅力という意味よりは、キャラクターの立ち居振る舞いや情景といった具体的なシーンという意味合いが強いです。

1の抽象性の解釈、つまりシーンの絵面を読者の想像に委ねると、先述したように作品がそもそも意図した形で伝わらない恐れがあります。そうなると、お互いに不幸でしかありません。著者は自分の意図した作品の魅力を伝え切れず、読者はそれを受け取れないわけですから。

 

完全余談の思い出話ですが、筆者は25歳になるまで小説が大嫌いでした。小中高でいちばん嫌いな授業は国語・現代文で、中でも小説や随筆の授業は、早弁したり漫画を隠れて読んだりしてました。

原因は、小学生のとき国語のテストで「このときの主人公の気持ちを答えなさい」という問題を間違えて、それに対する先生の解説がどうしても理解できなかったこと。最終的に「先生は作者にそれが正解だって聞いたんですか?」と不貞腐れて、国語は勉強しなくなりました。

評論文は理性的に解釈できるので納得できたんですけど、小説って感情で捉えるものですから、人によって解釈が違っていいじゃないかと思っていました。でも、学校の授業はそれを許してくれませんでした。

 

だから、先の2のような具体的な表現で書きたくないんですよね。こちらの演出を押しつけるような=受け手の楽しみを奪ってしまうような気がして。

 

というわけで、個人的には3をメインとしつつ、読みのリズムなどを考慮して時おり1を交えるのがよいのかなと思いながら、いつも書いてます。

もちろんいつもそうとはいかないので(鬱陶しくなる)、そのあたりバランスは取ったり、1はなるべく避けたいので、そこは適当な修辞法で代替するケースが多かったりと、統一感ないですが。

 

とりあえず、そんなところです。

眠いので、寝ます。