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《参考図書》
- クラウゼヴィッツ『戦争論』(岩波文庫、篠田英雄訳)
《今話で取り扱う範囲》
- 攻撃と防御とは種類と強弱を異にする二個の相違なるものであるからこれに両極性の原理を適用することはできない(第1篇・第1章・第16節)
- 一般に防御は攻撃よりも強力でありかかる事情が両極性のはたらきをしばしば消滅させる、また軍事的行動に停止状態の生じる理由もこれによってよく説明されるのである(第1篇・第1章・第17節)
- 軍事的行動を停止せしめる第二の理由は不完全な情況判断にある(第1篇・第1章・第18節)
- 軍事的行動が頻繁に停止されると戦争はその絶対的形態からまずまず遠ざかって確からしさの計算となる(第1篇・第1章・第19節)
- それだから戦争を博戯たらしめるにはこれに偶然が付け加わりさえすればよい、ところが戦争に偶然は付き物なのである(第1篇・第1章・第20節)
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戦争とは「博戯(賭け事)」のようなものである
こちらの意志を相手に強要することが目的の戦争において、なぜか軍事行動を停止する=目的の達成を目指さない光景が見られることがあります。
この一見すると矛盾していると思われる状況がなぜ発生するのか、それを説明するためにクラウゼヴィッツは「両極性」という概念を打ち立てました(vol.03参照)。今回はこの「両極性」について詳しく見ていきます。
たとえば、攻撃と防御を考えてみましょう。この2つに両極性の原理を適用することはできるでしょうか。
クラウゼヴィッツは無理だと言います。なぜなら、片方が攻撃したら、もう片方が必然的に防御するわけではないからです。勝利と敗北が表裏一体なのに対して、攻撃と防御はまったく相異なるものなのですね。
また、その強弱も常に等しいわけではありません。こちらの攻撃力が敵の防御力を上回ることもあれば、まるで及ばないこともあります。常に「正量がその反対物すなわち負量を完全に消滅させる」わけではありません。
ですが、戦いそのもののなかには、この両極性が宿り得るとクラウゼヴィッツは言います。たとえば、片方が軍事行動の延期を望めば、もう片方は必然的に軍事行動の即時実行を求めるからです。
もっとも、これは「両者が戦況や相手についての情報を完全に把握しており、かつ互いが攻撃をしかけようとしている場合」にのみ成り立ちます。たとえば、片方が防御を選択すれば、この条件は当然ながら崩れます(これは後で語られることですが、クラウゼヴィッツは防御を攻撃より優れた戦争形式であると考えています)
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ここで、片方が「延期の有利」を求め、もう片方が「防御の有利」を求める状況を思い浮かべてみましょう。前者は「いま攻めても不利だから、決戦を延期したい」と考えており、後者は「攻勢をしかけるほど優勢ではないから、防御に徹したい」と考えています。
ここで、前者の「延期の有利」と後者の「防衛の有利」を比較したとき、どちらが上回るでしょうか。クラウゼヴィッツは上述の通り「防御は攻撃に優る」と考えているため「防御の有利」のほうだと言います。決戦を延期しても、それはただ現状を維持しつづけるだけに過ぎません。
しかし、では前者が延期しないで攻撃に転じるかというと、そうもいきません。なぜなら、クラウゼヴィッツの主張によるならば、攻撃は防御に劣るからです。よって、攻撃側は有利な時機が訪れるまで決戦を延期しなければなりません。しかし、防御側は「防御の有利」を捨て去るほど優勢ではないと考えているため、その防御を解くことはありません。
ここで、戦いそのものにおける両極性が成立しなくなったことがお分かりいただけるでしょうか。
先に「両者が攻撃をしかけようとしている場合」には、両極性が成立しましたが、片方が防御を選択した途端、このように両極性は崩壊します。「延期の有利」が「防御の有利」を上回れないと判断した前者は、本来なら打って出ようとするはずですが、しかしそこに「防御が攻撃に優る」という事実が立ちはだかって、この攻撃を停止させるわけです。
これによって「軍事行動の停止状態」が生じます。
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軍事行動の停止状態を引き起こす理由は、もう一つあります。それは「不完全な情況判断」です。
両極性の原理が成立するための条件として、両軍が戦況についてすべてを把握していることがありました。ですが、現実にそのような事態はあり得ません。大抵の戦場で情報は不完全かつ不足しており、各軍は手元の情報だけをベースにあり得る展開を推測しながら作戦を立て、遂行していきます。
その作業にあたるのは、もちろん人間です。軍隊のトップである将帥も現場のいち兵士も、等しく人間です。そして人間である以上(程度の差はあれど)彼らは不安や恐怖を抱きます。
すると、なにが起こるか。その不安や恐怖が、この推測の精度を歪めてしまうのです。相手の戦力を過大に見積もったり、逆にこちらの戦力を過小に評価したりといった具合ですね。
こうして不完全な情況判断が生じると、それによって本来なら攻めるべき有利なときに「いまは優勢ではない」と判断して防御に徹することもあれば、一方で有利なはずの国が「攻勢を延期したい」と考えるようなことが起こり得ます。上述の軍事行動の停止状態ですね。
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しかし、この軍事行動の停止状態が長引くと、今度はこの情況判断の誤差が埋まっていきます。
たとえば、ある国が「相手は攻めてくるだろう」と判断したとします。ですが、実際の相手はまるで行動を起こしませんでした。このとき、この国は敵状に関する一つの情報=事実を手に入れたことになります。当然「なぜ相手は動かなかったのか」という事実をベースに、次の行動を策定・実行することになります。
このように戦争が長引けば長引くほど、一つずつ行動=事実が積み重なっていきます。これによって、推測の精度が上がっていく=情況判断の誤差が埋まっていくわけですね。
つまり戦争は、情報が手に入らないからこそ観念的にしか判断するしかなかった状況から、現実の情報に即して蓋然的に判断できる状況になったわけです。ちなみにクラウゼヴィッツは、こうした可能性を見極める作業を「確からしさの計算」と呼びました。
以上のことから、クラウゼヴィッツは「戦争とは客観的に考えて『確からしさの計算』つまり『博戯(賭け事)』である」と言います。これまでの戦争の交互作用の議論や両極性の話は、すべてこの「確からしさ=偶然」という要素を無視していたわけですね。ですが、これは戦争に必然的に含まれるものです。クラウゼヴィッツは「戦争ほど不断かつ一般的に『偶然』を伴うものもない」と言っています。