swatanabe’s diary

webライター、ラノベ書き(アマ)。だいたい創作とゲームとラノベの話です。

自己肯定感を高める要因は2つある気がする

こちらを読みまして。

 

logmi.jp

写真家の幡野広志さんと元電通のコピーライター・青年失業家の田中泰延さんが、大学生の人生相談に乗ったイベントの書き起こし。とても興味深かったです。

で。ちょっといろいろ蓋が開いたので、昔を振り返りがてら、自己肯定感について考えてみようかなぁと思います。

なお、結論はタイトルに書いてありますが、自分の思考を整理するための記事なので、思うがままつらつら書いていきます。結論はたぶん最後のほうまで出てきません。まぁ「結論」って、そういうもんだしね!(苦笑)

 

     *

 

まず筆者の自己肯定感ですが、周囲が引くくらい低いです。

たとえば、仕事で褒められるのが嫌いです。苦手ではなく嫌いです。上司やクライアントに褒められても、表向きは御礼を言いますが、心の中では大抵「はいはいお世辞お世辞」と疑ってます (なんたる性悪。苦笑)。詳細は割愛しますが (後で書いてるかも)、仕事で褒められて嫌だった思い出がけっこう多いんですよね。

あと、仕事上の口癖は「申し訳ございません」です (笑)

 

ただ、仕事以外でも自己肯定感が低いので、前々からなんでそうなったんだろうなーというのは、我ながら不思議でした。

 

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冒頭の記事の中に、こんな言葉があります。

幡野:あのね、自己肯定感が低い人はいっぱいいるんです。(中略)決定的な違いは、親が褒めたか褒めていないかの違いだと思う。たぶん大毅君のお父さんとかお母さんは、すごく褒めてたと思うよ。だからああやって自信があるんでしょう、根拠のない自信なんだけど。(Aさんは)褒めてもらっていなかったんじゃない?

(引用:ログミー「「親に褒められなかった子ども」は自己肯定感が低い 幡野広志氏が心がけている、自分を認める習慣」より。中略は引用者による。なお以下、引用は全て同記事より)

これ読んだとき、まず感じたのは驚きでした。

というのも、筆者は「親に褒められても、自己肯定感は高まらない」と考えてました。親って普通は褒めるものだから、べつに効果ないんじゃないかなと。

 

なんでそう考えていたかというと、筆者はわりと褒められて育ったからです。たぶん褒める:叱る=4:1くらいの割合で、幼少期を過ごしたと思います。

親は滅多なことでは叱らず、宿題をやらなくても、スーファミばかりしていても、基本的にスルーでした。叱られた明確な記憶は、万引きしたときくらいです (後にも先にも親を泣かせたのは、あのときだけ。いやはや・・・)。それ以外は正直、なにも覚えていません。

 

一方で、幼少期に褒められた記憶はたくさんあります。

  • 近所のおばあちゃんが暴漢にバッグ奪われたのを友達と警察に通報して、後日に逮捕されて感謝されたとき、親もめちゃめちゃ褒めてくれました。
  • テストの点数がアップするたびに褒めてくれました。30点が40点になった程度でも。
  • 自由研究で恐竜のペーパークラフトを紙から自作したときも褒めてくれました。およそ恐竜とは呼べない何かが出来上がりましたけど (苦笑)。でも、これがいちばん嬉しかったかなぁ。
  • 逆上がりできるようになったときも褒めてくれました。ちなみに中学3年生の話。恥ずかし過ぎる。

ほかにもいっぱい思い出せますけど、いったんこんなところで。

 

というわけで、筆者としては「親に褒められた経験」と「自己肯定感の高さ」は相関しないという考えでした。わりと褒められてきた自分の自己肯定感がゼロに等しいので。

 

     *

 

でも、中学生くらいまでは褒められたら素直に嬉しかったよなぁという思い出を振り返ると、やっぱり褒められると自己肯定感が高まるのかなとも思うのです。

だけど、今の自分の自己肯定感はとんでもなく低い。なぜ?

 

そこでふと思ったのが、

「なにかが足りてなかったんじゃないか?」

ということでした。

 

そう思うと、冒頭の記事を読んでて気になったのが、以下の箇所。

幡野:でもこれ、どうしたらいいんだろうね。結局、自分が褒めるしかないんじゃない。僕は自分ですごく小っちゃいところを褒めてますけど。

ここのニュアンス、ややネガティブ寄りなのかなと思うのです。「結局」という単語があることからも。「他にやりようないよね」「誰も褒めてくれなかったら、自分で自分を褒めるしかないよね」的な。

 

このときの「褒める」って、なんとなく世間一般の「褒める」が持っている機能と違う気がするんですよね。なんとなくですけど。

 

     *

 

筆者は「褒める」という行為には、2つの機能があると思ってます。

「伸ばす」機能と「支える」機能です。

前者はもっとやる気にさせるために、後者は挫けそうなときに倒れないよう支えてあげるために褒める、そんな感じです。ポジティブな機能とネガティブな機能といった感じでしょうか (支えるって別にネガティブじゃないですけど)

 

思うに、自己肯定感を高めるためには、この「伸ばす」褒めると「支える」褒めるの両方が必要なんじゃないかなぁと。そんな気がするのです。そう考えると自分の過去が綺麗に整理できるだけ、とも言いますが (苦笑)

 

たとえば、中学時代。筆者は陸上部だったのですけど、高校は陸上の推薦で行きたいと思うくらいには頑張ってました。手前味噌な話で恐縮ですが、都道府県大会でベスト8に入ったり、地区の大会記録を持ってたくらいには本気でやってました。

が。中3の頭に原因不明の症状で膝がイカれまして、以降は走ることに関して嫌な思い出しか残ってません。運動会で転ける、部活で1年生に抜かれる、大会でも惨敗、中3は何一つ良いことのない1年でした。

 

で。

それまで部活しか取り柄がなかったので、それをいきなり奪われて、夏以降は自棄になってました。もうやる気なかったので部活にもほとんど行かず、夏休みは家で不貞寝を決めこむ毎日。自己肯定と無縁の生活どころか、唯一の取り柄を失った自分を延々と自己否定する日々でした。

 

そんな中、うちの両親はどうしたかというと、放任主義でした (というか、うちは基本的に放任主義)。後から聞くと「どう接したらいいのかわからなかった」らしく、困ってたらしいです。

まぁ無理もないと思います。どんな病院に行っても「原因不明」「異常なし」でしたから。むしろ息子の体を治すために、めちゃめちゃ手を尽くしてくれたので、感謝しかありません。いろいろ病院を探してくれて (10を超える病院に行きました)、最終的には東洋医学まで試して (初めてのお灸体験。あれなんかクセになりますね)、ほかにもいろいろ手段を探してくれました。

とはいえ、そこで親に感謝して「しかたないか」と諦められるほど人間できてなかったので、肝心の息子はどんどん堕落してったわけですが。

 

ただ、相当に気を遣ってくれていたのは覚えてて、この時期の両親・特に母親は妙に優しかったです。ドラえもんみたいに、なんでも叶えてくれました・・・は言い過ぎですけど、似た感じでした。

 

     *

 

あのとき、もし親が「支える」機能としての褒めるを実践してたら、今の自分はどうなってたんだろうなぁと思うんですよね。ダメな自分を「そんなことない」「それでもいい」的な感じで。そうしたら、なにか変わったのかなと。・・・いや書いてて思いましたけど、なんか甘えてさらに堕落しそうな気が (笑)

 

まぁそんな自分ごとは置いといて真面目な話に戻しますと、大人になった後を振り返ってみると、けっこう影響あったんじゃないかなと思うんです。

 

その理由となるのが、前々職の経験。

このとき在職中に4人の上司がついたんですけど、このうち2人は形だけ褒めるタイプの上司でした。ひどい言い方すると、口だけ立派な上司。

特に1人は、普段やたら褒めてくるんですけど (必要以上に)、筆者がヒィヒィ言ってたときは、定時になると「大丈夫? そんなわけないよね。頑張って」と笑顔で言い残して颯爽と帰宅していく上司でした。ほんとイライラしました (苦笑)

一方、残りの2人の上司は、ふだんわりと褒めてくれるのは同じなんですが、筆者が辛いときは支えてくれる上司でした。詳細は身バレの恐れがあるので割愛しますが。

 

このとき、前者の上司2人の「伸ばす」褒めるは、まったく響かなかったんですけど (疑ってました)、後者の上司2人の「伸ばす」褒めるは、素直に嬉しかったんですよね。

その違いの要因は多々あると思うんですけど、ここに「支える」褒めるが大きく影響してたような気がします。

「伸ばす」褒めるは、お世辞とか口だけの可能性も過ぎるので、相手によっては肯定として受け取りにくいこともありました (前者2人の上司のように)。でも「支える」褒めるは、まず間違いなくダイレクトな肯定だといえると思います。だから「支える」褒めるも与えてくれた後者2人の褒めは「伸ばす」であれ「支える」であれ、素直に受け取れたのかなと感じます。

 

というわけで。

自分なりに過去を振り返ると、自己肯定感を高める要因として、この「支える」意味での褒めるが大事なんじゃないかなぁと思ったり思わなかったりしてます。

まぁ少なくとも自分に関しては、今さら自己肯定感を高めようとか思いませんが (苦笑)

 

とりあえず、そんなところです。思うがまま一気に書き殴ったので、あとでちゃんと書き直すかもしれません。

 

眠いので、寝ます。