少し前、水果さんというアイドルの方が「私、松本穂香さんの双子かもしれない」と思い、戸籍を調べて自分のお母さんの名字を確かめたら「ブンナワー」だったという話題がバズってました。
重大発表×ほんとにあった怖い話 pic.twitter.com/dAD3BlKU98
— 💙水果@匿名ミラージュ💙(ブンナワー・エミカ) (@suica_eu) 2020年2月10日
事実は小説より奇なり、といいますが、まさにそんな話ですね。
ただ、あまりにフィクションめいているからか、中には「嘘こけ」のような反応の方もいらっしゃいました。
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小説より奇なりな事実は、リアルではあっても、リアリティがありません。言い換えれば、リアリティの程度と出来事の事実性は必ずしも正しく相関しないわけです。
こうした例は、意外とたくさんあります。たとえば、前後即因果の誤謬。これはリアリティがあっても、リアルではないケースですね。「風が吹けば桶屋が儲かる」がわかりやすいと思います。リアリティがあると言ってよいのか微妙な例ですが (苦笑)
机上の空論も、リアリティあるけどリアルじゃない例ですね(厳密には、少し違いますが)。「月間の顧客数が10万人で売上が100万。だから来月、売上200万を達成するには、20万人の集客が必要だ」と言われると、リアリティはありますが、実際そう上手くいくとは限りません。つまりリアルじゃない。
前後即因果の誤謬や机上の空論が成り立つのは、人は自分が分かったことを鵜呑みにしやすい生き物だから。これは皆さんも経験的に理解できると思います。
筆者の場合、ジンクスがあります。これは前後即因果の誤謬の典型例ですね。原因と結果の間にいっさいつながりがないのに、たまたま何度か両者が結びついたせいで、そうだと思い込んでしまっているわけです。
こういう経験をするたび、もしかして人間は「リアル」ではなく「リアリティ」を求める生き物なのかなぁと思わなくもありません。より正確には、自分が納得できる程度のリアリティを、自分の安心や快感などポジティブな感情のために求める。たとえそれがリアルと食い違う内容であっても。
もちろん人によるので、なんともいえません。ただ正直なところ、仕事でSNSを拝見していると、自分が納得できるリアリティ(前後即因果の誤謬、ジレンマ、机上の空論など)だけを求めている人が多いように感じています。
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ただ創作においては、むしろこの「自分が求めるリアリティがあるか」が大事な気がしています。小説の場合、読み手が自身の求める程度のリアリティを感じられるか、というわけですね。たとえそれがリアルではなくとも。
典型的なのが、曲がり角で食パンくわえた女子高生とごっつんこ「いったーい!」からの「遅刻! 遅刻!」でパンチラ拝んでから自分も急いで登校したら彼女が転校生として紹介されて隣の席に座る、というやつ(時代錯誤も甚だしい)。どう考えてもリアルで起こるわけないですが、ただ起こり得るかもしれないわけです。現実的に不可能な話ではないので。
この「現実的に不可能ではない」のをどこまで許容できるかが、ここでいう「求めるリアリティの程度」です。「いくら創作の世界でも、そんな可能性の低い話を書かれると冷める」という人もいれば「別に創作の世界なら、それでもいいんじゃない?」と許容してくれる人もいます。
ライトノベルでいえば、ライトノベルの読者の皆さんがどこまでのリアリティを許容してくれるのかといった感じですね(もちろんその見極めは簡単ではないわけですが)
この話をするとき、よく例に出すのが『りゅうおうのおしごと!』です。
以前、twitter上で同作を「中学生で竜王とかありえない」「ガバガバ設定」という批判があったのですが、同時期に藤井聡太さんが彗星の如く現れ、あっという間にガバガバ設定じゃなくなりました(もちろん竜王になったわけではないので、完全に同じ状況ではないですが)
白鳥士郎さんが最も憧れのラノベ作家なので、100パーセント贔屓目で語るのですが、個人的には特にガバガバだとは感じませんでした。理由は先にも書いたのと同じ「起こり得ることだから」です。
筆者は基本「1パーセントでも起こり得ることなら、書いてもいい」という、とんでもなくガバガバな考え方です。半分は純粋に、半分は "あえて" そう考えています。"あえて" の真意は「そう考えておいたほうが、書けることの幅が広がるから」という便宜的な都合です。
将棋に詳しくなかったのも大きかったかもしれませんね。竜王になるとはどういうことなのか欠片も理解していなかったので、すんなり受け入れられた気もします。
ちょっと散らかってきたので、整理しましょう。
- リアルとリアリティは違う
- リアルだけどリアリティがない出来事は、小説より奇なりな事実など
- リアルじゃないけどリアリティがある出来事は、前後即因果の誤謬、ジレンマ、机上の空論など
- 創作においては、3の手法(前後即因果の誤謬、机上の空論など)がむしろ有効活用できる
- ただし、それを受容できるか否かは、読者が求めるリアリティの程度による
ファンタジーなどは、誰も経験したことがない世界で展開されるため、どうしてもリアリティのみで物語を構築しなければいけません。ただ、言い換えれば、前後即因果の誤謬などが有効活用できるともいえます(もちろんその妥当性は問われるわけですが)
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ただ、ここで個人的に気になっているのが、「リアルだけどリアリティがない出来事」と「リアルじゃないけどリアリティがある出来事」を受け取るときの読者の心理状態には、かなり差があるのではないか、ということです。
筆者自身がこの両者を受け取るとき、なんとなくですが、
- リアルだけどリアリティがない出来事 : 理性による
- リアルじゃないけどリアリティがある出来事 : 感性による
- リアルでリアリティもある出来事 : 理性による
気がしています。理性は「理解」、感性は「納得」と言い換えてもよいです。
1。
目の前に実際に起こってしまっているので、理解せざるを得ません。ただ、リアリティがないので、なかなか納得はできない。そんな感じです。
2。
論理的に正しいなどで納得感があるため受け入れるのは容易ですが、理解できるかというと微妙。
3。
文芸小説などで登場する出来事。2が論理的なリアリティなのに対し、こちらは経験的なリアリティという違いがあるように感じます。そのため、受け手がすんなり取り込むには、理性より感性にストレスがかからないことが大事な気がします。
よって、ライトノベルのような特に虚構性の強いフィクション世界を理解するとき、読者の中では理性ではなく、感性が大きく影響しているのではないかと思っています。そして虚構性の強さ故、納得のハードルが高めに設定されているように感じます(少なくとも筆者の場合、文芸小説などを読むより頭にかかるストレスが強いです)
王道・お約束・テンプレといった道具を使えば、この感性に対する説得力を補い (あるいは麻痺させ)、納得のハードルを下げられます。その意味でも、こうしたツールはとても大事だと思います。
逆に、フィクション性の強い出来事の説明に現実世界の経験則(経験的なリアリティ)などを援用するのは、多少リスキーな気がしています。このあたりは以下の記事で書いたので、そちらを参照まで。
あえてリアリティを削り、理性に対する説得力を強めることで、すんなり受け入れやすくなる、そんなケースもあるのではないかと。
とりあえず、そんなところです。眠い頭で書いているので、後で書き直すかもしれません。
眠いので、寝ます。