swatanabe’s diary

ラノベ創作、ゲーム、アニメ、仕事の話など。仕事はwebメディアの仕組み作り・アライアンスなど。

なぜ創作の指南本を読まなかったのか聞かれたので

近況
  • 腕立てが130回までできるようになりました。ただ、食事制限してる関係で、筋肉はまったくついてません。
  • DLsiteが絶賛セール中のため、ひたすらエロ同人ゲームや同人誌を買いまくってます。steamやswitchもお気に入りにつっこんどいた作品が尽くセールされてて、買おうか悩んでます。資金繰りが大変です。来月のクレカ怖い。
  • 2日おきに1時間だけ、近所の人気のない山中を散歩してますが、1年ぶりにタヌキ見ました。かわいいですね、タヌキ。


2013年6月にラノベの新人賞受賞をめざしてニートを始めましたが、やってきたことといえば、ひたすら読んで、書いて、応募して、考えて、読んで、書いて、応募して、考えて・・・だけで、創作の指南本を読んだり、小説の書き方的なセミナーやカルチャースクールに通ったり、その手の専門学校に通ったりは、いっさいしませんでした。

そのあたりの経緯は以前、以下の記事にまとめたのですが、

smug.hatenablog.com

今年の頭だったでしょうか、こちらを読んだ方から「なんで指南本とか読まなかったんですか?」的なご質問をいただき、ちょっと整理してみようと思います。

 

     *

 

当時の最初期の戦略をひとことにまとめますと「ひたすらMF文庫に応募する」でした。戦略性が欠片もありませんね。

理由は上記の記事にもありますが、当時のMF文庫は年4回も開催されており、一次に通過するだけで3名ぶんのレビューが手に入ったからです。また知人に聞いた限り、他賞よりレビューの返送時期が早かったのも理由のひとつでした (今どうなってるのかはわかりません)

駆け出しの頃は、レビューの内容より量を優先してました。理由は、こちらに実力がないからです。

レビューの内容はこちらの実力に比例するので、基礎もできてない作品に対する評価は、どこに応募してもおおよそ似通う=極論「基礎ができてない」に収斂すると予想できます。よって、当初はとにかくレビューの数を集めて基礎固めを急ぐ時期と決めてました (貯金が尽きるまでという時間制限があったので)

 

     *

 

では、なぜその基礎固めを指南本などでやらなかったかといいますと、自分の場合、効率が悪いからです。

たとえば「これであなたも年収1000万の営業マンに!」的な指南本があったとしましょう。じゃあ、この本を読んだら誰でも本当に年収1000万になれるかと言うと、もちろんそんなことはありません。おそらく大半の人が失敗すると思います。

理由は、著者と読者の置かれた環境がまったく異なるからです。

著者と読者の得意不得意、売る商材、クライアントの事業・予算・担当者などの状況、著者と読者の社内状況など、両者の置かれた環境が一致することはありません。そして、著者のハウツーはあくまで著者の環境で成功したもの=著者だから通用したのであり、読者の環境でも再現できるとは限りません (だいたい通用しないと思います)

 

こうしたハウツーや知識は、その人が置かれた環境に最適化されたものでなければいけません。世界的に有名なコンサルタントが提唱する無機質なフレームワークより、社内の先達が積み上げてきたノウハウのほうが有益なのと同じですね。

そのため指南本を使う場合、まず自分の置かれた環境向けにローカライズできるか判断しなければいけませんが、面倒くさがりの筆者的には、これが手間で嫌なんですよね。だからビジネス書もまったく読みません (笑)

 

これは創作の指南本にもいえることです。一流の作家さんの成功したノウハウや、よく耳にする汎用的な知識を援用すれば自分も実力が固まるかというと、決してそんなことはないでしょう。

たとえば、創作の基礎知識に「序破急」や「起承転結」という概念があります。ただ、こういう概念を使うと面白い作品になるかというと、そうとは限りません。カルチャースクールなどで「そういう概念を使いましょう」と言われたとき「それで面白くなるんですか?」「その本は売れるんですか?」と尋ねたら、返答は間違いなくノーでしょう。

こうした概念はあくまで「形式知」、コミュニケーションツールや分析ツールとして役に立つのであって、実際の「書く」という現場では、そうではない (むしろ人によっては邪魔にすらなる) と思います。

 

     *

 

また効率ともう一つ、こちらのほうが大きな理由なのですが、個性が消えるのが嫌だったというのもあります。

指南書は一方向のメディアです。言い換えれば、自分の状況を加味した上で方向性を提示してはくれません。

このとき問題になるのは、自分の欠点の矯正ばかりに目が向いて、個性が失われる恐れです。

 

筆者の例を出しますと、筆者は「面白さ第一」という言い訳のもと、小説の作法をかなり蔑ろにしてます。典型的なのが、三人称と一人称を混ぜた地の文でしょうか。シーンごとに使い分けるのではなく、あるまとまった文章の中で両者が登場します。ここにリンクは貼りませんが、カクヨムに過去作いくつか載ってるので、見つけた方は、よければ読んでみてください (面白くないのを覚悟した上で。笑)

地の文の人称は統一するのが常識です。そのためこの書き方は、普通に考えれば怒られます。

ですが、この書き方は自分にとって最も大きな個性の一つとなっています。レビューでも嬉しいことに、この点は作品の魅力そしてオリジナリティとして、かなり高く評価いただけています。もし駆け出しの頃、指南本から修行をスタートしてたら、いまのこの形は確立されなかったでしょう。

 

自分の強みを把握してない状態で指南本に頼ると「矯正」「補完」という使い方しかできません。一方向性のメディアなので。対して、レビューは強みと弱みを共に把握できます。つまり、個性を活かしたまま実力を伸ばす上では、指南本は向かず (正確には修行初期には向かず)、レビューが最適解だと思います。

 

とりあえず、そんなところです。

眠いので、寝ます。