swatanabe’s diary

ラノベ創作、ゲーム、アニメ、仕事の話など。仕事はwebメディアの仕組み作り・アライアンスなど。

小説でキャラクターの名前を出すタイミングについて

近況
  • 「天結いキャッスルマイスター」ただいま第9章。シミュレーションRPGやると特定のキャラばかりレベル上がる悪癖が出まくってます。第6章でようやくミクシュアナが仲間になって超溺愛中。ドーピングアイテムも装備の製作もすべて彼女最優先と贔屓全開です。
  • 世情に伴う多忙のおかげで更新が完全にストップした転職エントリーですが、活動自体は意外とちゃんとやってます。とりあえず連休中にソシャゲ・ブラゲ分析用のスプレッドシート作りました。
  • そろそろ本当に髪が鬱陶しくなってきたので、小学生以来の坊主にしようと目論んでます。ただバリカンが見つからない。どこいったあいつ。
  • 次作の構想が思い浮かびません。

 

     *

 

小説に初登場したキャラクターの名前が、いきなり地の文で明かされたときに違和感を覚えるかどうか。創作仲間にそんな質問を投げつけてみたところ、問題なく受け入れている人も少なくないという結果になり、ちょっと意外でした。

 

少し具体的に書きますと、ある人物Aが作中に初めて登場したとき、誰かがAの名前を呼ぶ前に、地の文がAの名前を明かした場合、違和感を覚えるかどうか、という質問でした。さて、皆さんはいかがでしょう?

個人的には「場合によっては違和感がある」ので、いつも地の文の人称に応じて次のようなルールを設けています。

 

  • 一人称の場合:地の文の視点を持つ人物がAの名前を知っていれば、すぐ明かしてしまっても問題ない
  • 三人称の場合:Aが名乗る、あるいは他のキャラクターがAの名前を呼ばない限りは明かさない
  • 神の視点の場合:どうなんでしょう?

 

一人称の場合、地の文の視点が誰のものかによって変わります。Aと既知の関係にあるキャラクターなら、その名前を知っていて当然ですから、たとえAが自分から名乗るなどしていなくても、地の文で名前を出しても特に問題ないかなと思っています。

 

一方、三人称の場合、地の文の視点はあくまで傍観者のため、事前にAが名乗っている、他のキャラクターがAの名前を呼んでいるなど、なんらかの形でAの名前が明かされていない限り、地の文でAの名前を出すのは違和感を覚えます。よって、Aの名前が出るまでは、地の文ではAを「少年」「少女」などと呼称しています。

余談ですが、このとき女性の呼び方で困るんですよね。男性だと「青年」という幅広い年齢層をカバーできる便利な単語があるんですが、女性の場合は「少女」より少し上の年齢層に該当する呼び方がないので (自分が知らないだけな気もしますが)

単に「女性」と書いてもいいんですが、それではなんか味気ないですし (好みの問題)、さてどうしたものかなといった感じです。

 

ただ、この三人称側で難しいのが、この傍観者が「なにをどこまで知っているのか」という点です。

ここまでの三人称における名前の理屈は、要は「傍観者はキャラクターの名前は知らない。知らないことは、知るまで語れない」とまとめられます。

当然ですが、この理屈は、それ以外の要素にも同様に当てはめなければなりません。作品世界について、主人公の過去について、文字どおりすべての要素についてです。傍観者はあくまで、その作品内で描かれている事実を記述する立場として存在しなければ、おかしなことになってしまいます。知らないことを語ってはいけません。

じゃあ、この傍観者は、いったいなにをどこまで知っているのでしょうか。

より具体的に書くと、なにをどこまで知っていても、読者に違和感を与える可能性を減らせるでしょうか。

 

現実問題、この理屈をあらゆる要素について完全に当てはめて作品を書くのは、少なくとも筆者の技術では到底不可能なので、傍観者は以下のような要素については知っている前提で書いています (甘え)

  • その世界における一般教養
  • その世界の歴史

他にもたくさんありますが、要は「現実的に考えて、その世界の人なら、みんな知ってるよね」と思われる要素は、傍観者も既知としています。傍観者もその作品世界の人間なので。もっとも、その線引きもまた難しいのですが。

 

また以前の記事で書きましたが、筆者の作品の地の文は少し特殊で、一人称と三人称が混ざっています。あるキャラクターの視点を借りて、三人称風に書いているイメージです。

そのため上記の要素に加えて「そのキャラクターにとって既知のこと」は、地の文で書いています。キャラクターの過去とか、周囲との関係性とか。

ただ、キャラクターの名前に話を戻すと、それでも地の文でいきなり明かすことはないです。本人が名乗るか、傍観者 (正確には視点を借りたキャラクター) が口にしない限りは、地の文に登場させません。やっぱりどうしても違和感があるんですよね。

 

で。最後の神の視点。作者の視点ですね。

これはどうなんでしょう? 筆者はこの視点で作品を書かないのでよくわかりません。

ただ、少し考えただけでも、妙なことになる気がするんですよね。

作者はすべて知ってるわけですから、初登場の人物の名前をいきなり地の文で明かしても特に問題はありません。そこに伴う先述の違和感についても「だって作者だし」で説明がつきます。

ただ一方で、他の部分でいろいろ妙なことになる気がします。たとえば、ミステリーで真犯人を知ってるはずの作者が「果たして真犯人は?」的なこと書いたり。

もちろん、作者がすべてを知った上で隠しているとか、いくらでも説明はつくとは思うんですけど、さすがにそれ無理ないかなとも思うんですけど、でも視点を持つ者がそもそもメタの存在だから、べつに書く側の理屈としてはなにも間違ってないよなとも思うんですよね。

 

というわけで、神の視点を借りる場合は「どこまで書いたら読者が違和感を覚えるか」を常に意識しなければならない、言い換えれば、意識すればべつになんでもありでいいんじゃないかなという結論に達しています。というか諦めています。どうせ自分はこの視点で書かないからいいや、と (笑)

 

とりあえず、そんなところです。

眠いので、寝ます。