swatanabe’s diary

ラノベ創作、ゲーム、アニメ、仕事の話など。仕事はwebメディアの仕組み作り・アライアンスなど。

自分の創作スタイルに影響を与えた小説たちを振り返るだけの枠。

先日、twitterで知り合ったラノベ作家志望の大学生とskypeする機会があり、彼の創作歴が今年で10年になることを聞きました。

10年。小学6年生くらいのときから書き続けているのだなと思うと、本当にすごいなと頭が下がります。筆者が勉強もせずに、ひたすらゲーセンに通い詰めたり、スーファミやゲームボーイに熱を上げたりしていた頃から、彼は頑張っていたんだなと。

 

以前のブログにも書きましたが、筆者はもともと小説が嫌いでした。大嫌いでした。小学生のころからずっと。

理由は国語のテスト。「波線部の主人公の気持ちを次のなかから選びなさい」や「ここでの作者の心情を説明したものとして、最も適切な選択肢を選びなさい」といった問題が出るたびに「小説って自由に読んでいいんじゃないの?」「先生は作者に気持ちを聞いたことあるの?」とイライラしていました。

結果、国語は勉強しなくなり、成績はいつも最低ランク。学校の授業以外で小説を読んだことは、25歳になるまでありませんでした。

 

 

25歳:小説に興味を持った / 桜庭一樹さん『私の男』

はじめて小説に興味を持ったのは、25歳のとき。放送作家の養成所に通っていた頃のこと。企画のネタ集めと流行チェックでいろいろなメディア作品にふれていたとき、桜庭一樹さんの『私の男』に出会ったのがきっかけでした。同作は半年前に2007年下期の直木賞受賞作に輝いていました。

当時も変わらずに小説が嫌いでしたが、放送作家が流行を把握していないとかあり得ないので、嫌々ながらに購入。そしていざ読んでみて「・・・え? 小説ってこんなこと書いていいの?」と、冒頭数ページで頭が真っ白になりました。内容に詳しくふれはしませんが、官能と背徳の小説と思っていただければと。

その後、桜庭さん作品を大量に買い集め、ファンブック的なものも購入し、憧れの作品として挙げていたガブリエル・ガルシア=マルケス『百年の孤独』も衝動買い。同作や桜庭さん作品に底流する独特な時間の流れ方、俯瞰的な視点から一族の歴史を丹念に追う浮遊感、あの幽体離脱を疑似経験しているような感覚は、今でも憧れます。

 

25歳:小説の技巧に興味を持った / 森博嗣さん『スカイ・クロラ』

その後、小説に少し興味が湧き、桜庭さんに続く作家として購入したのが森博嗣さんでした。購入第一作は『スカイ・クロラ』。映画を夏に見ており(養成所の試験で出題された作品レビュー課題の題材にしました)、その流れで原作を手にしました。

同作で最も印象的なのは空戦シーン。単語一言レベルの短文を改行でつないでいく、あの独特なスタイル。ほぼ主人公の視点と心情のみで空戦を切り取ることが生み出す臨場感とスピード感が本当に大好きです。自分の創作力の基礎を築いてくれたシリーズであり、今でもよく読み返します。

作品全体は設定の重々しさもあり、とても落ち着いた物悲しい世界観のなかで話が進みます。登場人物たちの心の動きはほとんど描写されず、見えてくるのは彼らの純粋ゆえに刹那的な思考と理屈のみ。

ですが、彼らにとって存在意義でもある空戦のシーンだけは、虚無感漂う中、どこか生き生きとした姿を見せてくれます。作品全体は灰色なのに、空戦シーンだけは色がついて読める、それまで後ろ向きだった少年少女が、空戦の中だけは前を向く、そんなふうに感じられました。

森博嗣さん作品には、技巧の大切さを教わった気がします。短文をつなぐとどのような効果が得られるのか、主語や感情表現を排するとどのように読めるのか。作品を分析するような読み方になったのも、この頃からかなと思います。

 

26歳:セリフの見せ方に興味を持ちはじめた / コーマック・マッカーシー『ザ・ロード』

ピュリッツァー賞を受賞した世界的な名作『ザ・ロード』。この作品をはじめた読んだときに面白かったのは、セリフにカッコがないことでした(邦訳版)。そのため最初は凄く違和感を覚えました。

ですが、それによってこの作品は独特な雰囲気に包まれていました。一人称の地の文とセリフがシームレスにつながることで独白感が強まり、荒廃した世界の虚無感を描き出すことに貢献していたように感じます。もちろんそれ以外の要因も想像されるのですが、あの作品世界を演出する上ではセリフを排した影響が最も大きいのではないかと。

筆者もラノベ新人賞受賞をめざしていた頃、実験的にセリフのないファンタジー作品を書いてみたことがありました。そのときの感想としては、このやり方は特にディストピア的な作風にぴったりくるなと。一人称の地の文は、そもそも過去を振り返るような見え方のため同作風と相性が良いですし、その地の文とセリフの境界を取り払ってしまうことで、セリフにも同様の効果を与えられる気がします。

 

26歳:体裁と作風の関係性に興味を持った / 村上龍さん『限りなく透明に近いブルー』

小説に興味を持ちはじめたこの頃は、特に文芸作品を多く手に取っていました。特に平成以前の文豪や、少し古めの海外作品が多く、作家としては日本だと三島由紀夫、夏目漱石、太宰治など、海外だとジャック・ケルアック、ジャン=マリ・ギュスターヴ・ル・クレジオ、ポール・ギャリコといったあたりが特に好きだった気がします。

そんな中で手に取った村上龍さんの『限りなく透明に近いブルー』は、文章表現や言葉選びなど幅広い面で影響を受けましたが、特に体裁と作風のつながりという点で印象に残っています。

同作の四六版は、紙面の下(上? どちらか忘れてしまいました)にかなり余白があり、また行間もかなり広く取られているのが特徴。文字も大きめで文字間も広く、人によっては「もっと詰めてページ数を抑えて値段を下げろ」と不満のひとつも零したくなるような体裁をしています。

ですが、同作の頽廃的な雰囲気を演出する上では、あの体裁が必須だと個人的には思います。広めの余白や行間、少ない行数と文字数によって強制的に読みのスピード感が落ち、また紙面に文字が少なく全体的に虚しいことそれ自体も、こうした作品の世界観を強固なものとしていました。

この感覚は当時、他の作家さんの作品でも感じていました。たとえば芥川賞を受賞された磯崎憲一郎さんのデビュー作にして文藝賞受賞作『肝心の子供』。同作の四六版は紙面の上(下? どちらだったでしょうか)が大きく空いており、見開き1ページの行数も文字数も少ないといった体裁をしています。同作もガルシア=マルケス的な浮遊感を特徴とする作品でしたが、あの世界観を読者に伝えきるには、やはりこの体裁でなければならないと感じました。

 

28歳:表現の力を思い知らされた / 貴志祐介さん『黒い家』

『新世界より』『天使の囀り』『悪の教典』など、大好きな作品が多い貴志祐介さん。なかでも『黒い家』は、夜中にビクビクしながらトイレに行く羽目になるほど恐怖したキャラクター・菰田幸子(こもだ・さちこ)が登場する作品で、とりわけ印象に残っています。

同作をはじめ貴志祐介さん作品からは、言葉選びと表現方法の妙を学びました。単語それ自体の音が持つ力。音数や語感、一文の長さ、前後の一文との文字数のバランスなどが生む読みのリズムやスピード感。倒置法や体言止めなどのレトリックが心の動きに与える影響など。今に生きる細かいテクニック、その大半が同氏の作品に依ります。

ちなみに蜂が苦手なため、いまだに『雀蜂』だけは購入できていません。蜂じゃないカバーの文庫版、早く出ないかなと・・・。

 

32歳:熱量の表現法を学んだ / 白鳥士郎さん『りゅうおうのおしごと!』

ラノベ新人賞をめざしてから一貫して書きたいと思ってきたのは、青臭いほど熱い作品でした。もともとゲーム好きで、創作の上でも王道のRPGのような作品をめざしてきました。

ですが、そのベンチマークとなる作品にはなかなか出会えず、最初のころは『イース』シリーズや『テイルズ』シリーズなどのRPGを参考にしながら創作。しかし、ゲームと小説では表現される内容および方法に差があり(ゲームは動き、アングル、スピードなど。小説は言葉のみ)、その言語化は簡単ではありませんでした。

待望の作品と出会ったのは、半年後のニート終了を決めた2016年の初夏。それが『りゅうおうのおしごと!』でした。

同作からは熱量を生み出す単語選びや文章のリズム、レトリックやストーリー展開などいろいろなことを教えてもらいました。それらを自身の感覚に落としこむため、文字どおり毎日かかさず同作を読んでました。特に1巻と5巻、そして7巻は数えきれないくらい読みました(各巻少なくとも50回は読んだ気がします)

 

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ほかにも探せばいろいろあるはずですが、思い出せないので、とりあえずここまで。気づいて気が向いたら、また追記するかもしれません。