swatanabe’s diary

webライター、ラノベ書き(アマ)。だいたい創作とゲームとラノベの話です。

違いと間違い

最近、駅前に議員さんが立っています。近く開かれる議会議員選挙へ向けた街宣活動でしょう。人によっては朝5時くらいから寒空のもと、チラシ片手に頑張っています。

じゃあ同情してチラシを受け取るかというと、華麗にスルーです。筆者はいわゆる無党派層で、選挙の都度、ホームページや新聞で公約を読み、自分なりに最もまともかなと思う方へ投票しています。だから街宣には興味がなく、街頭演説も聞きません。

 

ただ、議員さんが「おはようございます」と頭を下げたら、支持していない方であっても御礼に頭は下げますし、チラシを差し出されたら「けっこうです」という意思を伝える意味で頭を下げます。それが筆者の「普通」でした。

 

このあいだ、その「普通」が崩れる出来事がありました。

 

その日、中学時代の友達と久しぶりに会う予定があって、二人並んで駅前を歩いていました。そこに街宣中の議員さんがいて、いつものように「おはようございます」と頭を下げられたので、筆者もいつものように頭を下げたんです。

どうやら、それが友達には、妙に思えたらしいんですよね。

少し歩いた後、いきなり「お前●●党支持なの?」と聞かれました。だから「いや全然」と答えて理由を説明したんですが、彼の返事は「へぇーそんなもんかぁ」と間延びしていたので「あぁ納得してないな」と分かりました。間延びは興味なかったり納得してなかったりするときの彼のクセなので。

 

そのあとすぐ集合場所について他の友達が合流したので有耶無耶になったんですが、この一件が今でも引っかかっています。

彼は、筆者が頭を下げた理由がよく分からなかっただけなのか。

あるいは、自分と意見が違うと感じて、ちょっと嫌な気分になったのか。

 

で。ちょっと思ったことがあったんです。

 

     *

 

昨今、意見が違うというだけで相手を嫌ったり批判したり中傷したりする人があふれています。それだけ「意見が違う」という事実のもたらす嫌悪感は凄まじいのかもしれません。

筆者は哲学科にいたせいか、意見の相違を目にすると自然と弁証法的構造が思い起こされ、その先には止揚が待っていると考える (妙な) 頭になっています。だから、意見の違いは「対立」ではなく「発展」を生み出すものと無意識に変換されます。

そのため、意見が違う人とも普通に話しますし、仕事しますし、遊びます。「おはようございます」とあいさつをされれば御礼に頭を下げます。べつに対立しているわけではなく、ただ「違う」というだけなので。

でも今の世間的には、きっと妙なことなんだろうなぁ、と。

 

なんか最近は、いろいろな「違い」を「間違い」と拡大解釈してしまって衝突や事件が引き起こされているケースが多いように感じます。

ある知人が、

自分と意見や価値観が違うだけで相手を敵視する人間は、2つの意味で間が抜けてるんだよ。

なんて上手いこと (?) 言ってましたけど、言い方は置いといて、意味内容としては分からなくもありません。相手との「間」、距離感と言い換えてもいいですが、すなわち相手の意見や価値観をいったん受け止める、相手を一面的にではなく俯瞰的に見るプロセスを放棄している人が多いといいますか。

 

まったく関係ない話をしますと、俳人・長谷川櫂さんのホームページに「間」に関する興味深い記述があります。

 

gokoo.main.jp

「間」を作ったり、読んだりするには心を静かにしなくてはなりません。
一億人の俳句入門「《俳句の相談》切れは「間」を生む」より)

 

もちろんこれは俳句における「間」の話であり、対人関係の「間」とは意味が違います。でも、なんか共通してるなぁと個人的には感じます。精神的に余裕がある人は、対人関係においても「間」をしっかり取れてるよなぁ、と。

余談ついでに、長谷川さんの著書『俳句の宇宙』には、俳句の「間」に関する章があります。創作関係の人には面白いと思うので、興味がありましたら是非 (長谷川さんの文章自体が詩的で、文章を追っているだけで耳が幸せです)

 

昔、解散してしまった某アイドルグループが「育ってきた環境が違うから 好き嫌いは否めない」と歌っていましたが、もうそんな時代ではないのかもしれませんね。

だからこそ、自分自身は「好き嫌いは否めない」を忘れずにいきたいと思います。

 

以上、ちょっと気になってモヤモヤしたので、書いてみただけでした。

半分以上、タイトルと関係ない話を書いてますね。疲れてるからということにしておきます。

 

とりあえず、そんなところです。

眠いので、寝ます。