※以下に移転しました。5秒後に自動で遷移します。
-----
《参考図書》
- クラウゼヴィッツ『戦争論』(岩波文庫、篠田英雄訳)
《今話で取り扱う範囲》
- 現実における手直し(第1篇・第1章・第6節)
- 戦争は孤立した行動ではない(第1篇・第1章・第7節)
- 戦争は継続のないただ一回の会戦から成るのではない(第1篇・第1章・第8節)
- 戦争とそれから生じる結果とはいずれも絶対的なものではない(第1篇・第1章・第9節)
- そこで現実の戦争において確実と認められるものが概念における極端なもの絶対的なものに代るのである(第1篇・第1章・第10節)
◇
たった一度の戦いで決着がつく戦争は存在しない
vol.001では、戦争には3つの交互作用があり、これによって対峙する両軍は限界まで戦いつづけることが分かりました。ですが、第6節でクラウゼヴィッツは「これは机上の話にすぎない」と言います。交互作用とは机上の空論であって、現実の戦争に適合する法則ではあり得ないというわけです。
こう書きますと「おいおい、じゃあ、第5節までの話(vol.001)はなんだったんだよ」と言いたくなるかもしれませんが、実際にそう書いてあるので、なにとぞご理解いただければと……。
では、いったいなぜ、この「交互作用」は机上の空論なのでしょうか。
その理由を、クラウゼヴィッツは「戦争に内在する性質によってのみ戦争を分析しているから」だと書いています。これは外からの影響を無視して戦争を考察しているからくらいの意味で捉えてください。つまりクラウゼヴィッツは「外からの影響を受けない戦争などあり得ない」と言っているわけです。
現実の戦争は、戦争の外の影響を無視して考えることはできません。代表的なところでは、政治や経済などから大きな影響を受けています(もちろん、この2つ以外にもいろいろあります。今後たくさん出てきます)。ですので、それらを無視して戦争を考えることはできません。ゆえにクラウゼヴィッツは、上記の交互作用だけに基づいた戦争の分析を不適切だと断じるのです。
*
もしこうした「内在する法則のみに縛られた純粋な戦争」、つまり交互作用のみが戦況に影響を及ぼす戦争が存在するとすれば、それは次の3つの条件を満たしたときだけだとクラウゼヴィッツは言います。
- 戦争が完全に独立した行動としてあること
- 戦争が、ただ一度の戦いから成り立つものであること。あるいは複数の戦いが同時に開始されて、同時に終わるものであること
- 戦争が、ただ一度の戦いによって決着するものであること。それにつづいて起こるはずの政治的顧慮が、その戦争に一切の影響を及ぼさないこと
こう書いた上でクラウゼヴィッツは、第7節以降でこの3つの条件が現実で満たされることはないことを証明していきます。
*
では、一つ目の条件から見ていきましょう。クラウゼヴィッツは「戦争は孤立した行動ではない」と言います。
戦争がいきなり勃発することはありません。そこには必ずなんらかの原因があります。ある領土を占領したい、自分たちにとって脅威だから滅ぼしたい、などなど。歴史を見ればいろいろな開戦理由が存在しました。
しかし、いきなりあるとき・あるところにおいて、爆弾が爆発するようになんの前触れもなく戦争が始まることはあり得ません。また、戦争のなかで取られる諸々の行動も、同様にそうする理由があります。たとえ傍目にはいわれなき奇襲のように見えても、仕掛ける側には必ず仕掛ける理由=原因があるのです。
そして、その理由=原因は決して交互作用だけではありません。「理論的に考えれば、相手はこう動くよね」という場面において、相手はときにそれとは違う行動・選択を行います。たとえば、軍隊がどれだけ戦いを望んでいても、国民がもう嫌だと言えば、それ以上に戦うことは難しくなります(専制的な政治体制のもとでなら可能でしょうが、代議政体のもとでは困難でしょう)。すると、強力の行使が極限に達するまえに、降伏や講和条約の締結といった結末に至ります。これは交互作用だけでは説明できない現象です。
ゆえにクラウゼヴィッツは、戦争に内在する法則(交互作用)のみで説明できる戦争=孤立した戦争は存在しないと結論づけるのです。
*
次に二つ目の条件です。クラウゼヴィッツは「戦争は継続のないただ一回の会戦から成るのではない」と言います。
仮に戦争が、たった一度の戦い(あるいは同時に行われる複数の戦い)だけで終わるものだとします。そうなると、双方の軍隊はその一戦にすべてを賭けるわけですから、限界まで準備をするでしょう。つまり交互作用が働きます(第3の交互作用)。その機会を逃すわけにはいきませんから。
一方、戦争が一度の戦いでは決着がつかず、複数の戦いを経るものだとすればどうでしょう。当然この準備が極限まで達する可能性は低くなります。先々に備えて兵力や物資を温存しておこうと考えるのが普通でしょう。
もしたった一度の戦いで終わる戦争が起こった場合、それは準備したすべての資材(兵力や兵器など)を、その一度ですべて使い果たすような戦争だとクラウゼヴィッツは言います。ですが、前述した通り、彼は「こうした事態は生じ得ない」という立場です。
では、なぜそうした事態が生じ得ないのか? その理由は戦争に用いられる力の使われ方にあります。
クラウゼヴィッツは、戦争で用いられる力を次の3つに分類しました。
- 本来の戦闘力
- 面積と人口とを有する国土
- 同盟諸国
それぞれの詳細については、ここでは割愛します(この先々で分かってきます)
たとえば(3)について考えてみましょう。
同盟国が自分たちの戦争に協力してくれるとき、同盟国はこちらの都合通りに動いてくれるでしょうか? 答えはノーです。同盟国はあくまでも「自分たちの利益」を優先して動きます。こちらの思惑通りには動いてくれません。たとえば「これだけ兵隊を貸して!」と言っても「嫌だ。その半分ならいいよ」と言われることはあり得ます。
もし望んだ半数の兵力しか借りられずに、この戦いに敗れたとしましょう。そこで戦争は終わるでしょうか? この答えもノーです。なぜなら同盟国の戦力がまだ残っているからです。そして、もし次の戦いに同盟軍の力を再び借りられるのであれば、自国は再び戦争をつづけることができます。
このように、戦争は常に交互作用以外の影響のもとで進み、一度の戦いでは終わらない方向へと流れていきます。ゆえにクラウゼヴィッツは「戦争は数次にわたる継続的行動である」と結論づけます。
なお、ここでクラウゼヴィッツは、特に理由なく「戦争は数次にわたる継続的行動である」と結論づけています。なぜたった一度で決着される戦争が存在しないのか、その背景は語られていません。敢えて言えば「歴史的に見てそうなんだから、そうなんだよ」といった印象です。このあたりの背景は(少なくとも筆者には)申し訳ないことに分かりません。
*
さて、最後の条件です。クラウゼヴィッツは「戦争とそれから生じる結果とはいずれも絶対的なものではない」と言います。
これは、戦争の決着後に講和条約を結ぶ状況を考えていただければ分かりやすいと思います。
戦争当事国は、戦況を見ながらさまざまな判断・行動を起こします。このなかには戦争をつづけるべきかどうかの判断も存在します。結果、講和した方が良いと判断されれば、講和条約の締結となります。
このとき、勝利した側が自らの意志を100パーセント相手に強要できることは、まずありません。敗戦国にさまざまな要求を課すことはできますが、欲しかった領土が一部しか手に入らなかったり、賠償金の額が低かったりということは当たり前にありました。なかには「戦前の状態への原状復帰」という、一見するとなんのために戦ったのか分からないまま決着した戦争もあります(ex. オーストリア継承戦争とエクス・ラ・シャペル条約。厳密には完全な戦前復帰ではありませんでしたが)
このように、勝敗の結果は絶対的なものではありません。勝者が自身の意志を100パーセント相手に強要することはまず不可能で、大抵は講和内容を詰めるなかで敗戦国への救済策などが盛りこまれます。
この性質により、戦争当事国は限界まで戦う前に講和を申し出るなど別の道を選択する可能性が出てきます。これは戦争が交互作用のみに従うと考えている限りはあり得ない話ですね。もしそうなら、両軍は一度の戦いで限界まで力を行使し、決着をつけにかかるはずだからです。
*
以上の3点から、戦争当事国は限界まで力を行使する道から離れる(交互作用の影響下を離れる)可能性が出てきます。そして、その道を離れるきっかけとなるのが、戦争の外にあるさまざまな要素(政治や経済、国民など)というわけですね。これをもってクラウゼヴィッツは、戦争を交互作用からのみ考える姿勢を不適切だと断じるのです。